<神殺しの神話の果てに> 『きみの話を聞かせてくれよ』村上雅郁 評

<神殺しの神話の果てに>

 

『きみの話を話を聞かせてくれよ』村上雅郁 評 

 

本評は『きみの話を聞かせてくれよ』のネタバレを含みます。

 

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「ねえ、くろノラ。きっとこれからも、私みたいな子がこの学校に来ると思うんです。クラスになじめなかったり、大切な人とすれちがってしまったり。だれにも理解されずにひとりぼっちでとほうに暮れている……そういう子が。そういう子って、きっとこの世界にたくさんいるんだと思います。助けてあげてください。私に、そうしてくれたみたいに」 - 本編冒頭部分

 

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村上雅郁の四作目、『きみの話を聞かせてくれよ』中学校を舞台とした短編連作青春群像劇である。それぞれ葛藤を抱える多種多様な登場人物たちが「黒野良輔」によって(直接的な介入でないにしろ)問題の解決の糸口を見つけていく。黒野は飄々とした立ち回りで神出鬼没。ミステリアスな彼の存在は多くの人々の心を掴むであろう。

 

一章では物事に執着する熱意と持続する意義についての葛藤ですれ違う早緑と六花を、二章では自分のイメージと本当の自分らしさに悩む羽紗と、周囲からのからかい(男性に対する性消費)で居心地の悪い虎之助を、三章では虎之助にふられてしまった七海と恋愛感情を持たない故彼女の気持ちへの適切な寄り添い方を見つけられない夏帆(アロマンティック・アセクシャルと本人が言及する場面がある。しかしその彼女に、彼女自身のキャラクターを鑑みたところで「まだ素敵な人に出会って居ないだけかも」と言わせるのはどうかとも思う)を、四章では不確かな友情というものに裏切られ、それでも手を解くことのできない葵生を、五章では人一倍の繊細さを持つが故に苦悩する妹、梢恵とその妹にうまく手を差し伸べられない兄、正樹を、六章では自身のアイデンティティを些細なきっかけで傷つけられた羽紗とその加害者であり親友だった玲衣を、黒野は「話を聞かせてくれよ」というスタンスでそれぞれの苦悩にアプローチしていく。

 

そして七章は、かつて自分が抱えた苦悩(不登校気味であったこと、学校、家庭からのプレッシャー)とその先に辿り着いた自分らしさについて見つけた黒野自身の答えが養護教諭である三澄先生の視点で描かれる。

 

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「おもしろいですよ。人間ほどおもしろいもの、ほかにはないですよ。どいつもこいつもなんだかんだ、あれこれめんどくさいものをいくつも抱えていて、それにしばられて動けなくなったり、技逆にふりまわされて走りまわったり、している」

 

(略)

 

「でも、そういうの、いとおしいじゃないですか。おれは、そういうやつらを見るとなんだかちょっかいを出したくなっちゃうんですよ」 - p324

 

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黒野は物語の装置としての<神>であり救済者である。前述の達観した、人間を降りたような振る舞いや言動と異常なバイタリティからもそのような意図が見受けられ、多くの登場人物は彼の暗躍により、救済を余儀なくされる。そして創作において存在するもう一つの<神>は言うまでもなく、物語を紡ぐ作者であろう。

 

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最初に不登校になったのは、
中学一年生のときで
「学校にいると、
ただただ不安になってしまう」
そんな状態だったと言います。

中2でいったん学校に戻り、
進学した高校では学年一位の成績を
とるほどに頑張った村上さんですが、
そのことが逆にプレッシャーとなって
夏休み明けから学校へ
行けなくなってしまいます。

 

-びーんずネット インタビューしました!雲の向こうはいつも青空Vol.6 ⑦村上雅郁さん

https://beans-n.com/column/murakami-masafumi/

 

黒野良輔はそのまま著者である村上雅郁と重なる。作中の黒野はそのまま作者である村上の投影であると読み取っていいだろう。ここで作者という便宜上の<神>と作中の装置としての<神>である黒野は一本の線で繋がる。

 

「児童文学作家は、未来を生きる子どもたちに何を語るか責任を負っている」

-カナロコ k-person 村上雅郁さんに聞く 子どもに対し胸を張れる大人でいたい

https://www.kanaloco.jp/special/serial/k-person/article-625194.html

 

村上の苛烈なまでの児童文学への熱意はそのまま<誰かを救わなければいけない>という強迫観念にも通じる。それは本作においての黒野の異常なまでの他者の問題への介入にも感じる。

「児童文学作家」として<神>として居続けることの選択を彼は物語上では黒野に託した。そしてその責務を黒野は真っ当した。当たり前だがこれは<神>の意のままに描かれる物語であるから、それは容易いことだった。

 

そして<神>への信仰は伝播する。

 

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おとなになったわたしは、だれかにとっての黒野良輔やくろノラのような存在になりたいと思った。心を自由に、好きなように生きていこう。

 

黒野くんのような人がいいなと思って読む人も多いのではないでしょうか。

 

黒野君、聞いて・・・と言いたくなった。

 

多くのこどもたちに、黒野君のことを知ってもらいたい。
光はここにあるよ、と本を差し出したい思いだ。

 

-ネットギャリーレビューより一部抜粋

https://www.netgalley.jp/catalog/book/281682

 

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村上作品の直近二作のテーマは<ファンタジーからの脱却>と<人間同士の対話>である。前作「りぼんちゃん」における児相の介入や朱理自身の努力による両親の説得、今作で最後に明かされる、作中ずっと匂わせられている黒野とは異形の存在なのでは?という部分に対する最終章での解答。人の心を読み取るテレパスとイマジナリーフレンドを持つ少女との異能バトル(そうとしか読めない)である『あの子の秘密』や付喪神的な装置による想いの継承が描かれる『キャンドル』の二作とは大きく乖離している。むしろそういった二作を書いたことでの裏切りとも読めるかも知れない。

 

前作『りぼんちゃん』に登場する朱理は自身の身長や発言から一人前の人間と認識してもらえない葛藤がある。それがそのまま唯一の理解者であり、凄惨な家庭環境の理緒の力になりたいと思えることに対しては、補助線が引かれたように理解が容易いし、彼女自身の行動が彼女の境遇や環境を大きく変えることになり、その彼女が持ち合わせた希望は彼女自身も救済した。

 

しかし黒野はどうだろうか。

 

押し潰されそうな孤独と不安感。家族関係や学校でのプレッシャーに対する彼なりの答えが他者への救済であった場合、それは酷く脆く危うい信念に思える。彼の環境や境遇は整理されないまま、被害者である黒野が変容をすることにおいて事態に収集がつく形になっている。五章で被害者の変容による解決を強く拒んだ黒野<=著者>は自分自身にこの言葉を投げられることができない。何も解決されてない。唯一作中で登場する「大人」である三澄養護教諭ですら、彼に話を聞いてもらって救済される始末だ。目も当てられない。

 

<神>は人間に戻ることを諦めている。<神>は孤独だ。黒野は孤独だ。人間の役目を降りた黒野はやはり異形のものであり、装置としての<神>である。猫にも人間にもなれず彼は閉塞された時間の中で<神>の役割を真っ当する。作中のみならず、現実の中ですら人々は彼が<神>の視座から降りることを許さない。人間間での解決に見える本作が、そこから一番かけ離れたものになっている(ように見える)のは皮肉だろうか。もう一人の<神>は徹底的に人間を描き損なっている。唾棄すべきファンタジーに依存している。じゃあ黒野の話は誰が聞くんだよ。

 

ここでの黒野の否定はそのまま作者が持つ自身への否定と重なる。作者が本当に救うべきなのは作者自身(もしくは近しい立場の他人)であるはずだし、多くの物語を通して<救済>を描いている作者が渇望しているのは自身への救済なのではと邪推してしまう。四作品通して過剰なまでの他者への関与も(物語のセオリーとして<喪失と再生>があるが故難しいところではあるが)ここに全て帰結するだろう。しかし、自己と同一した立場への配慮が圧倒的に欠けていると言わざるを得ない。

 

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唯一の希望は黒野が何にも得難い多くの友人と繋がれたことであろう。今度は彼彼女らが黒野の話を聞く番だ。その時に、黒野は初めて救済される側に身を置くことができる。<神>を作るのが人間であるのなら、壊すのも人間の役目だ。<神>の視座から降りた彼から話を聞くことで、そこで一方的な会話と救済の歪な相互依存が終わる。ファンタジーは呼吸を止めて、人間同士の対話が始まる。そこにいる<神>はその結末を描き足すこのできる唯一の人物だけが残る。その傷跡の回復こそ今著者の作品に圧倒的に欠けている最後の一片であろう。

 

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文責 村上智